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オトロク()、またはアトラク()は、12世紀前半のポロヴェツ族のハンである。シャルカンの子、コンチャークの父にあたる。兄弟にはスィルチャンがいる。 ==生涯== 1111年、ポロヴェツ軍はルーシ軍とのサリニツァ川の戦いに敗れた。オトロクとスィルチャンは、散り散りになったポロヴェツ族のオルダをまとめ、自身の部隊の補充にあてると、それぞれ北コーカサス・ステップとドン川下流域へと撤退した。また、オトロクのオルダは、ルーシと対立していたドネツのアラン人と同盟を結んだ。 1117年、オトロクはコーカサス北部に進入し、サルケル(ru)を破壊した。サルケルの住民やペチェネグ族、トルク族らはルーシへの避難を余儀なくされた。また、ポロヴェツ族はコーカサス北部のアラン人、アドィギ人(チェルケス人)(ru)、ヴァイナヒ人(ナフ人)(ru)らを抑圧した。しかし12世紀の初めには、クバン川、ニジュニャヤ・マルカ川(下マルカ川)、テレク川を領界線として彼らとの関係は安定した。なお、ポロヴェツ族とアラン人の和解には、グルジア王ダヴィド4世(ru)の助力があった。このダヴィド4世は、セルジューク朝のグルジア侵攻を危惧し、グルジア王国(en)の軍事力を強化するために、1118年、ポロヴェツ族との同盟を結んだ。また、同盟締結によって、オトロクの娘・グランドゥフトと、ダヴィド4世との婚姻が結ばれた。 同盟の後、ダヴィド4世は南コーカサスのセルジューク朝軍に対する戦争を立案し、オトロクを援軍に招いた。オトロクは4万人に上る軍勢(女性は除く)を率いてグルジアへ到着した。加えて、5千人の精鋭部隊を王の親衛隊として編入した。1125年、オトロクはディドゴリの戦い(en)で、グルジア軍の勝利に貢献した〔Anatoly Michailovich Khazanov, André Wink (2001), ''Nomads in the Sedentary World'', pp. 46-8. Routledge〕。なお、兄弟のスィルチャンのオルダはドン川の遊牧地に留まった。 『原初年代記』・イパーチー写本(ru)には、1125年のウラジーミル・モノマフの死後、オトロクはスィルチャンの招きに応じて、ドン川へと帰ったという記述がある〔Denis Sinor (1990), ''The Cambridge History of Early Inner Asia'', p. 181. Cambridge University Press〕〔Gerard Chaliand (2003), ''Nomadic Empires: From Mongolia to the Danube'', p. 52. Transaction Publishers〕。オトロクと彼のオルダの一部はドン川へ帰ったが、オルダの多くはグルジアに残った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オトロク (ポロヴェツ族)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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